<要素還元主義と科学の限界を自覚する>

  前回、我々は物事を論理の世界で考える際には、言葉を使って、つまり抽象化して世界を見ているというお話をしました。今回は、この抽象化の過程が科学の世界でどの様に使われているかをもう少し丁寧に見ていきたいと思います。
    
    実際にある薬を例にして説明します。イレッサとタルセバというある特定のタイプの肺がんに使われる抗がん剤があります。二つの抗がん剤ががん細胞を攻撃する仕組みは同じです。専門的に言うと、共にがん細胞中のEGF受容体という標的分子に作用して、その働きを止め、がん細胞の増殖を止める薬剤です。それぞれの添付文書によると、二つは共に粉末でイレッサは白色の粉末、タルセバは白色から微黄色の粉末と記載されています。分子構造も似ていますが、全く同一ではなく、それ故に増殖抑制効果、体内の分布、代謝速度、など若干の差がある事が予想されます。

    さて目の前にこの二つの抗がん剤があります。見ただけではただの白っぽい粉です。但し、服用すると癌に効くらしい。そうすると人間は比べたくなりますよね?どちらが良く効くか?専門的に言うと、それらの効果を比べるでしょう。普通、抗がん剤の効果を比べるには、無増悪生存期間(PFS)や全生存期間(OS)という尺度を使います。効果を測るモノサシの役割をするものだと思ってください。PFSやOSはそれぞれ、患者さんの病態が進行せずに停止している期間だったり、(病態の進行も合わせて)どれだけの期間生存しているか、といったモノサシです。モノサシは他にもあります。レスポンスレイト(RR)と言って、投与した患者さんのうち、何人の患者さんに効果がみられたか?も比較のモノサシにもなったりします。そういったモノサシを目的に応じて選んで、比較しているのです。

    薬には、効果以外にも副作用があり、イレッサもタルセバも、EGF受容体が多く発現している皮膚や腸内の上皮に作用して、皮膚炎や下痢といった副作用が高頻度で起こる事が知られています。それらの副作用を比較したい場合には、皮膚炎や下痢の発現頻度、即ち、皮膚炎は□%、下痢は▲%という発現頻度を比較するのが理に適ったやり方でしょう。状況によっては、皮膚炎や下痢だけでなく、副作用全体を引っくるめて、重篤な副作用を予め定義して比較する事もあります。
    
    さて、ここで科学で行なっていることを改めて確認したいと思います。現実世界では、白っぽい粉末の薬があり、ある種の肺がんの人が飲むと、効果があり、癌が縮小したり、また別のある人が飲むと副作用が出るわけです。人間はどちらが効くか知りたい、または安全か知りたいから、効果とか副作用を測るために目的に応じたモノサシを用意して数値化する訳です。これは抽象的な世界での作業です。もう一つ強調しておきたいのは、比較は同じモノサシでしかできないという事です。効果と副作用は同じモノサシで比べられないし、副作用同士でも皮膚炎と下痢を同じモノサシでは比べられません。どうしても比べたいなら、効果としてどれだけ生き延びたか?と、副作用としてどれだけ死亡してしまうか、という命を基準にすれば同じモノサシの上で比較ができます。これが、先述の全生存期間に相当します。

    ここで見てきた様にある要素を定義し、その中で論理的に考察するのが論理学や科学の特徴です。これは要素還元主義と言われ、しばしば全体を見る事がができないと批判の対象となることがあります。そういった欠陥や次回以降で説明する因果関係が見れない等の欠陥がありますが、それを自覚する事により、効果的なデータの使い方、意味のあるデータの読み方を行い、本質に近づき、世の中を住みやすいように変えていっているのが科学とも言えるでしょう。

 

『太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽に変えられる絵描きもいる。』パブロ・ピカソ