<世界をモデル化する。抽象化された世界で考えるということ。>

 今回は、<はじめに言葉ありき>でお話しした抽象化についてもっと科学的な面から掘り下げていきたいと思います。

 

 さっそくですが、皆さまが高校物理で習った次の式“v=gt”は現実か?というところから始めさせていただきます。この式の意味するのは、“物体の自由落下速度は時間に比例する”、という関係です。重さに関係しないとか、色々、読み取ることができますが、そういう関係を表しています。

 

 では、この式は現実にそうなるでしょうか?例えば、鳥の羽根、雨の水滴、雪、みな同じ速度で落ちてくるでしょうか?現実にはそうはならない筈です。つまり、この関係式には前提条件があります。すなわち、ここでいう物体には形や体積が無く、風の影響や空気抵抗を無視した場合の理論上の関係式だということです。こうした力学の関係式を現実世界で使う際には、そうした前提条件を考慮しなくてはならない、もしくはそれがどこまでそれが使えるかを念頭に置き、使える範囲を明確にしなければ上手に使いこなすことができません。

 

 念を押しますが、理論上の関係式が成り立つのはそれが現実のデータに支えられているからですが、実際的な場面では落下速度に影響を与えるそれ以外の要素もあるので、それらを考慮して、使える、使えないを判断する必要がある、ということです。

 

 さて、話を更に進めて、この物体の落下の例を使って10メートル下の落下点を想像してみましょう。理論的には、質点の場合は形や風の抵抗もなく、物体はまっすぐ下に落ちる筈です。ここに平べったい板の様なものを落とすことを想像してみましょう。現実世界の話なので、形や向き、風速なども考慮します。板は落ち始めの向きによって空気の抵抗を受け、前後左右に揺らぎながら落ちる筈ですし、途中で風の影響を受けたりして、その落下点は質点の時の様に真下に落ちるとは限りません。これを正確に予測しようとすると、板の向き、風の速度や方向などを変数(パラメータ)とし、モデル(関係式)に組み込む必要がありそうです。現在では、計算科学が発達していますので、そうした変数と落下点から適切な関係式を組み立て、精度よく落下点を予測することが可能かもしれません。

 

 今、行った一連の作業は、物体の落下点の位置をそれに影響しそうな因子を変数とし、データに基づいて関係式として表すという作業でした。これが現実をモデル化する、或いは、関係式などに抽象化して考えるということです。なんとなくイメージを持っていただけたでしょうか?そして、私が強調しておきたいのは、科学は現実を抽象化して表しているのであって、実在との間にギャップがあるということ、そして科学はそのギャップを埋めるように理論を修正していく、という作業になるということです。

 

 こうした抽象化、モデル化はなにも物理だけではありません。疫学の例を考えてみましょう。今回もいつものように、何でも揃っている都合の良い架空のデータベースを想像しましょう。今、ある薬を服用した患者さんに副作用が起こっている疑いがあり、それを調べる為に、薬を飲んだ人と飲まない人で比較し、副作用があるかどうかを確かめることにします。

 

 さて、ここで薬を飲んだ人を定義(=決めること)してみましょう。単純にはその薬を1回でも飲んだ人を”薬を飲んだ人”、その薬を全く薬を飲まなかった人を”薬を飲まない人”と決めて比較するかもしれません。しかし、ちょっと考えてみてください。この定義だと、1回飲んで止めてしまった人と1年間継続して飲んだ人を同じ”薬を飲んだ人”として扱って良いか?少ない量を飲み続けている人と多い量を1回飲んだ人を同じに扱って良いか?過去に飲んでいたけど、一旦止めて再開した人、或いは止めてから別の薬を飲んだ人、或いは止めて10年後に副作用らしきものを発症した人、こうした様々な”薬を飲んだ人”を同じに扱っても良いのでしょうか?

 

 答えは、ケースバイケースです。つまり、検証しようとする副作用に依ります。例えば、ショック性の副作用の場合なら、薬を一回でも飲んだ人は”薬を飲んだ人”グループに入りますが、過去にその薬を飲んでいたけど、違う薬に変えた後に副作用を起こした人は”薬を飲んだ人”から除外したりします。つまり、生物学的にどのような反応が起こっているかのモデルを考えつつ”薬を飲んだ人”の定義を決めているのです。

 

 このような事象を抽象化する能力は、人類に固有の能力と思われます。人類の歴史を振り返れば、遠いエジプト文明では土地やピラミッドの測量の必要性から幾何学が生まれました。また、デカルトは世界を座標の中に抽象化することを提案しました。ポアンカレアインシュタインは、思考の中でモデルを考えた訳です。数や足し算、引き算、掛け算、割り算も皆、抽象化の産物なのです。

 

 最後に、統計の役割についても確認しておきましょう。先ほど述べた物体の落下位置を推定する場合を考えてみましょう。この例では、落下位置に変化を及ぼす変数を色々考え、データを元に精度の高いモデルを組み立てていく方法を説明しました。ここで変数を考えずにデータを蓄積していったら、どうなるでしょうか?つまり、10メートルの高さから同じ板を何回も落としてみて、経験的にどこにどのくらいの割合で落ちてくるという統計を取れば、次に落ちる位置は統計的に推定ができてしまうのです。

 

 ちょっといい加減な感じがするかもしれませんが、ここで紹介した統計的な方法では、関係しそうな変数の選択やモデル化をしなくても、落下地点を推定できるという利点があります。変数が分からなくても対応できるという利点があ流のです。特に、生体反応や社会学などといった様々な因子が複雑に絡み合っている事象に関しては、未知の変数が多く、またそれらがどれくらい影響するかも、全くと言っていいほど分かっていません。その様な場合に統計が力を発揮するのです。いわば科学に於いて、理論と統計は両輪なのです。