<ランダマイズ化で交絡を断ち切る>

    前回は交絡因子と言う実在する怪物の話をし、その対処法の一つとして層別化を紹介させていただきました。そして、その層別化にも限界がありそうだ、ということもお話ししました。今回は、もっと根源的な意味で最強の対処法であるランダマイズ化について説明します。もっとも、それについても限界があるのですが。

    例によって、反実仮想モデルから話を始めようと思います。このモデルでは全く同じ現実を2つ用意し、片方に、原因として検証したい因子を加えてみて、結果に差が生じれば、2つの事柄の間に因果関係が成立する、と言っても良いだろうというものでした。そこでAさんとソックリなBさんが居れば、即ち、体質も、生活も、食事のパターンも、その他諸々も限りなくAさんに近いBさんが居れば、交絡因子に邪魔されずに因果関係を検証できる。でもそれって現実にはできないね、という話になったと思います。

    そこでちょっと考え直してみましょう。今まで、AさんとソックリなBさんという、あくまで個人のレベルで話を進めてきましたが、これをある集団Aと集団Bと読み替えてしまったらどうでしょうか?例えば、日本人の集団とか。元々、反実仮想モデルのところで“全く同じ現実を2つ用意し”というところを、Aさんという“個人”を勝手に当てはめて話を進めてしまったのですが、実はAさんという個人でも、集団Aという集団でも構いません。

    ただ、解釈をキチンと知っておく必要があります。Aさんを2人用意して、寝坊した場合としなかった場合で、寝坊と遅刻の因果関係を検証しても、分かるのはAさんのその日における寝坊と遅刻の因果関係だけです。例えば、電車が止まっている日はこの因果関係が成立するかわかりません。この例だと分かりにくいので、薬とその効果の因果関係を検証する場合を例にしてみましょう。

    Aさんの風邪に対して、ある薬の効果が検証されていたと仮定しましょう。この薬は、Aさんとは体質が違い、薬が早く代謝されてしまうBさんにも効果があるのでしょうか?それはBさんで検証しなければ分かりません。こんがらがってしまう人がいると困るので、丁寧に説明しますと、元々、反実仮想モデルを使って、“全く同じ現実を2つ用意し”のところで、Aさんを2人用意して効果を検証しました(これは理想の世界での話で、現実にはほぼ不可能という話をしましたので、検証できたという仮定です)。ところが、Bさんは体質が違い、薬が早く代謝されてしまう訳です。Bさんにこの薬の効果あるかどうかは、分からないですよね?ということです。Bさんで薬に効果があるという因果関係を検証しないとハッキリとは言えない。で、究極的には一人ひとり、効果を検証しなければ分からないことだらけ、ということなのです。前々回で出てきた、“野球の試合で自分のチームが勝ったのは自分のお陰だ”、というのが万が一検証できたとしても、次回、相手が変わったり、相手が同じでも自分のチームが変わったり、自分のチームの他の誰かが大活躍して勝ったりしたら、自分のお陰かどうかもわからないまま試合が終わってしまいますということです。

    では、Aさんを日本人という集団に読み替えた時は、どう解釈すれば良いでしょうか?方法については後で述べますが、日本人で“薬(原因)”と“(ある病気に)効果がある(結果)”の因果関係を検証できたとします。Aさん個人について検証した場合は、Bさん個人については検証した訳では無いのでBさんにも当てはまるかどうかは分からないのですが、“日本人という集団”で薬の効果が検証されたならば、“日本人という集団”について当てはまりそうです。つまり、Aさん、Bさんといった個人的な因果関係ではなく、日本人といった、より広い範囲に因果関係を拡張できそうです。付け加えて言うなら、<科学の目的>で書いた“普遍的な法則を見つける”というのを思い出してください。うまく普遍的な方向、つまり、個人から日本人に当てはめられるという一般化の方向に進んでいませんか?

    実際に、反実仮想モデルを元に、日本人で薬と効果の因果関係を検証していく方法を考えていきましょう。え?日本人を2つ用意できないって?では、日本人を2つのグループ、つまり半分に分け、両方とも日本人の集団としてしまったらどうでしょうか?この2つの集団を同じと見做しても良いでしょうか?結論を言ってしまえばOKです。Aさん、Bさんといった個人では、それぞれ体質の差があったり、年齢、性別や喫煙歴とか飲酒歴とか、結果に影響するかもしれない交絡因子に差があって、比較をしても因果関係があるかどうか分からなくなる可能性がありました。しかし、Aグループ、Bグループとし、その中に色々な人を入れて“十分に”人数が多くなれば、同質なグループとして、因果関係の検証に耐えるぐらいに同質になります。

    ここで“十分”に人数が多い状態とは、A、B両グループで交絡因子の平均や散らばり具合が同じと見なせる状態で、この場合、集団として同じと見なすことができます。例えば、A、B両グループの中には、病気の軽い人、重い人、色々います。薬の効果を見る場合、重い人には効かなくて、軽い人には効くとすると、Aグループの中には薬が効く人もいれば、効かない人もいる訳です。また、年齢によって効いたり、効かなかったりする場合でも、A、B両グループで平均年齢が同じで、その散らばり具合も同じであれば効果の検証が可能です。代謝について個人個人で違っている場合でも沢山集めれば、同様のことが言えます。この事は、たとえ喫煙の有無や飲酒の有無が結果に影響しても、しなくても両方のグループに同じ様に散らばっていれば良い訳です。また、全然、気付きもしない様な未知の交絡因子があっても、人数が沢山いれば、どちらのグループにも同じように散らばっていることが期待されるので、同様のことが言えます。このように集団をある程度大きくしていけば、反実仮想モデルを使って、AグループとBグループの結果を比較することにより、薬とその効果の因果関係を検証することが可能になります。こうやって考えていくと日本人を2つのグループに分ければ、“十分”に人数が多い状態となり、検証が可能になります。

    さて“日本人全体を2つに分けれ”ば、十分に人数が多いと言えそうですが、それは非現実的ですし、理論的に何処から“十分”と言えるか?それが分かれば、必要最小限の人数を使って検証することができそうです。それについてはまた回を改めさせていただくことにして、実際にはどうやっているかを見てみましょう。例えば、病気に対して薬の効果があるかないかは、臨床試験で検証されます。臨床試験では、病気の進行度を揃えたり、試験から子供や高齢者を除外したり、肝臓に障害のある人を除いたりと、交絡因子として病気の進行や薬の効果に影響しそうな因子を予め除きます。この事により、数百から数千人規模でも薬の効果を検証できる状態にして臨床試験を実施しています。

    さて、ここで敢えてダメな例を紹介します。例えば、症状が重いグループと軽いグループに分けます。そして、薬を症状の重いグループに投与し、症状の軽いグループには薬を投与しなかったとします。すると、実際に薬が効いていたとしても症状が重いグループに投与しているのと、一方では、薬の投与をしていないグループでは症状が元々軽いこともあり、効果が見辛くなる可能性があります。投与を逆にすると、症状の軽いグループに投与すると薬の効きがよく見え、尚且つ症状の重いグループは病気がドンドン進行していきますから、実際の効果よりも大きな効果に見える可能性があります。だから矢張り、この様な、結果に影響をする因子は、A、B両方のグループで均等に散らばっている必要があります。両方のグループで各因子が上手く散らばる為には、何も考えずにランダムにグループ分けされる必要があるので、ランダム化と呼ばれます。ランダム化は前述の様に、未知の交絡因子が潜んでいたとしても、グループの人数を増やすことで対処できます。ですから、上手く人数を割当てやれば、ランダム化することにより、交絡因子の影響を断ち切ることができるのであり、人類が知り得る殆ど唯一の交絡を断ち切る方法です。

    しかし、冒頭で述べたように、この人類にとって唯一の交絡因子という怪物に立ち向かう方法にも限界があります。最後にそれに触れておきます。

    医薬品として、国に承認されているものは、特殊な場合を除いて、ランダム化比較試験を経て、薬と効果の間に因果関係がありました、つまり、この薬の効果は検証済みですよ、というお墨付きを貰って承認されています。このことを正確に解釈すると、効果が検証されているのは、試験をされたグループの条件に当てはまる人においてです。つまり、『薬に効果がある事は検証された。それは、試験条件に当てはまる人においてである。』です。条件に当てはまらなかった人に対しては、『薬の効果は検証されているので、効果が見込める。』が正しい解釈です。また、条件に当てはまっている場合でも、効果があった人と無かった人がいる訳です。ある条件で検証された因果関係を、その他の条件に拡張する作業は一般化と呼ばれます。これは、メタアナリシス等と一緒に説明した方が楽しいと思いますのでそれまでお待ちください。

    もしかしたら、『全ての条件で検証しないのはけしからん。キチンと全ての人で効果を検証してから承認しろ。』と言う人がいるかもしれません。でも、そういう人には、敢えて反論させて貰います。それをやっていたら世界から薬が無くなってしまいます。現実に、薬は多くの人を救ってきました。その薬を世界から無くしますか?世の中には論理的に正しいことはゴマンとあります。論理だけで考えることは、所詮、頭の中で考えたことです。科学者にとって、論理は世界を表現する道具であって、従わなくてはならないルールではありません。