<反実仮想モデルで因果関係を検証する>

    因果と言うと、哲学や仏教を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、科学においても重要なテーマです。というか、科学という作業は因果関係を明らかにしていくことに他なりません。例えば、物体は何故落下するのか?何故、液体が蒸発して気体になるのか?特定の薬がある病気に効果があるのは何故か?等々。この様に自然の法則を明らかにするという作業は、因果関係を解き明かしていくという行為であり、科学そのものなのです。さて、科学においては、この因果関係を見つけるのに<仮説と検証>でお話した検証方法を使います。今日はこの因果関係を検証する方法について話してみたいと思います。

    いきなり例から入ります。朝、寝坊して会社に遅刻したとします。この時、会社に遅刻した原因は、普通、寝坊だと考えますよね?それが全てとは言いきれませんが、普通は寝坊したから会社に遅刻した。大抵の場合、寝坊と遅刻の間には、原因と結果の関係が成立します。つまり因果関係があると考えます。また別の例を挙げますと、風邪薬を飲むと症状が改善する。ここにも原因(薬を飲む)と結果(症状が改善する)という因果関係が成立します。では、野球で自分のチームが勝ったのは自分のお陰だ、というのは、自分が居た(原因)からチームが勝った(結果)、または負けた(結果)のでしょうか?客観的に見て明らかに自分の大活躍のお陰でチームが勝ったのならそういう事が言えるのかもしれませんが、微妙な接戦に於いては、そうかもしれないし、そうではないかもしれないのではないでしょうか?そして、よくよく考えて見ると、遅刻の例でも、実はその日は電車が止まっていて、寝坊しなくても遅刻したかもしれませんし、風邪薬だって、もう治りかけの時点で飲んでいたら、薬を飲まなくても症状は改善したのかもしれません。さて、ともかく、人間はこの様に因果関係を、事象の変化を順番に捉え、論理的に類推する訳ですが、その途中途中で、100%そうとも言いきれない論理展開を含む事になります。特に野球の勝ち負けで話した様な事例は、そこら中にあります。風が吹けば桶屋が儲かる型の類推は論理的ではありますが、“限界がある”、つまり真の因果関係かどうか自信を持って言いきれないということです。そこで、科学では因果関係をもっと正確に捉えるということが必要だという事がお判りいただけたでしょうか。

    現在、科学の世界で受け入れられている因果モデルと言うものがあります。これは1970年代にルービンという人によって提唱されたモデルです。このルービンの因果モデルでは、‘寝坊した自分が会社に遅刻した’という事実に対して、‘寝坊しなかった自分’が会社に行ったらどうなるか?を想像します。そして、両方の結果を比較します。もし‘寝坊した自分が会社に遅刻し’て、‘寝坊しなかった自分が会社に定時までに着け’ば、‘寝坊し’たことと会社に‘遅刻し’たことの間には因果関係がある、と言っていいだろう、と決め事をします。決め事と言いましたが、これは我々の考える因果関係の条件を満たしていると思います。例えば、薬を飲んだ場合と飲まなかった場合で、風邪の症状が改善するかどうかを確認すれば、薬と症状の間の因果関係を確認する事ができますし(風邪が治りかけの時点で、薬を飲んだ場合と飲まない場合で比較すると効果は見えずらくなります)、野球のチームに自分が居た場合と居なかった場合で勝敗を確認すれば、自分が居た事とチームの勝利の因果関係を確認する事ができる筈です。この方法だと、理論上はあらゆる因果関係を検証できそうです。また、この形式は先に<仮説と検証>で見た仮説検証の形になっていることも覚えておいてください。つまり、寝坊したから遅刻した、薬を飲んだら症状が改善した、自分が居たからチームは勝つことができた、という仮説を検証している訳です。

    では、どうやって二つの場合を比較するか?という問題になります。先に、『‘寝坊しなかった自分’が会社に行ったらどうなるか?を想像します。』とか『野球のチームに自分が居た場合と居なかった場合で勝敗を確認すれば』としれっと書きましたが、現実に二つの場合を比較するには、ドラえもんが‘もしもボックス’でも出してくれない限り実現しそうにありません。ついでに言うと、先程挙げた例で‘寝坊しなかった自分’や‘自分が居なかったチーム’と言うのは現実には起きえないので、反実仮想と呼ばれ、今説明してきたルービンのモデルは反実仮想モデルと呼ばれることもあります。

    話を元に戻しましょう。理論的に反実仮想モデルを使って因果関係を確認できそうですが、実践できなければ、絵に描いた餅です。何とかして二つの場合を比較しなくては因果関係を確認できません。結論を言ってしまうと、実験室で行なっている実験がまさにその解決法です。理系の人はすぐにイメージできると思いますが、実験を行う際に対照群(control)と言うのを置いたことはありませんでしょうか?例えば、酵素の反応を見る際に、酵素を入れた反応系と、酵素を入れない反応系で反応させ、結果を比較する、またはその変法で酵素の濃度を段階的に変えていき、結果が段階的に変化するかどうかを確認する。マウスを使った実験であれば、何らかの処置をしたマウス群と、処置をしていないマウス群の結果を比較する。この様にして、科学の世界では物事の因果関係を検証しているのであり、その為、科学が明らかにすることには一定の信憑性があるのです。勿論、比較する因子(ここでは、酵素の有無だったり、マウスの処置)以外を揃えなくては、反実仮想モデルに近づかないので、その他の条件、例えばマウスであればその辺にあるのを捕まえてきたのではなく、遺伝的に同じ系統のものを使い、餌や飼育環境を一定にする訳です。

    さて、成る程、実験室では様々な工夫により、反実仮想モデルを利用して物事の因果関係をかなりの精度で検証できそうだ、と言うことに同意いただけると思います。では、実験室の外、現実の世界ではどの様な工夫をすれば、この反実仮想モデルを使って因果関係を検証できるでしょうか。次回は、その話をさせていただきます。

<ヨーダの言葉>

    今回は<仮説と検証>の補足をお話します。目の前に起こった事柄を観察して、因果関係を考え、それを仮説として検証するのが科学者の役めだというお話をしました。これは、目の前に起こった事柄から仮説を思いつき、検証もせずに感覚的に自分が正しいと主張しても真実に結びつくことは極めて稀だということが解っているし、それは論理的に客観的な証拠とはなり得ないからです。エビデンスの十分でない仮説をお互いに主張しても、論理的に決着をつけることはできません。その状態でお互いに張り合っても言い争いになるだけですし、声の大きい人や、立場が上の方が勝つに決まっています。ただ、社会に於いて、この様に自分の思いついた仮説が正しい、『何故なら疑いなくエビデンスがあるからだ(先の例ではミーちゃんがゴロニャンした事実)』と言い張る人は非常に多く、厄介ではあります。相手の主張が論理的に破綻している場合なら、論理が飛躍しているとハッキリと説明できるのですが、この場合は、ミーちゃんが“ゴロニャンするのは、餌が欲しいからだ”と論理的には間違いもなく、そう言えば近所の猫もゴロニャンして餌を貰ってた、と感覚的に正しいと思い込んでしまう人も結構いますから。今ここで引用したエビデンスと科学でいうエビデンスはちょっと違います。そこで、科学で言うエビデンスとは何か?ということになるのですが、その説明は因果性やエビデンスレベルについて順次お話をさせてください。長くなりそうなので。今日はここでちょっと気晴らしをして終わりにさせていただきます。


    スターウォーズに出てくる“フォース”を知っているでしょうか?ジェダイの力の源泉とされている力です。私が子供の頃の和訳では”理力“と訳されていました。そのフォースとジェダイについてジェダイマスターであるヨーダはこんな言葉で表していますので(英語部分)、私が日本語を補って私の解釈が伝わり易いようにしてみました。

Many of the truth that we cling to depend on our point of view.
現実に起こった出来事でも、人によって見方、仮説は異なります。
私の言う科学者のモノの見方とは、事実から真理や自然の法則を見抜く方法であり、技術です。

To be Jedi is to face the truth, and choose.
ジェダイであることは、事実を直視し、様々な思い込み、仮説から自然の摂理を見極めることです。
A Jedi uses the Force for knowledge and defence, never for attack.
ジェダイはこの理力を知識や平和の為に用いますが、他者を攻撃する為に使ってはなりません。と言うか、攻撃の為に用いた途端に自我が生じるから他者を攻撃できないのです。この自我が生じるということは思い込みに囚われることであり、ジェダイの理力の源を失わせることに繋がり、真実を見極められないからです。武道で言う“後の先”の極意です。相手からの攻撃に対しては、無想無念で対処しますが、自分からは攻撃を仕掛けないということです。

A Jedi's strength flows from the Force.
ジェダイの強さは、様々な仮説の中から自然の摂理を選び取る理力に在るのです。

To answer power with power, the Jedi way this is not. 
力で相手を屈服させる方法は、ジェダイの自然の摂理に従ったやり方とは相容れません。ジェダイとは無私でなければなりません。

Fear is the path to the dark side. Fear leads to anger, anger leads to hate, hate leads to suffering.
自分の考えたことを否定し、自然の摂理に任せることは自己の否定という恐れに繋がります。自分が考え、正しいと思った意見を否定されて悔しい、腹立たしく思ったことはないでしょうか?自分の考えが常に正しく無いことを自覚し、客観的になることはとても勇気のいることなのです。ただ、そのことを恐れて、自分が正しいという思い込みにしがみつくことは暗黒面に囚われること、即ち真実や自然の摂理から遠ざかることです。自分が正しいと考えていたことが実現しないと、臆病な人はその原因を外的要因に求め、怒りに繋がるでしょう。時には、原因を社会や他者に向け、怒りをぶつけるかもしれません。その怒りや憎しみは、元を辿れば自分で自我にしがみついた結果がもたらしたものなのです。

In the end, cowards are those who follow the dark side. 
繰り返しになりますが、つまるところ、暗黒面に堕ちるのは自分が正しいという根拠のない妄想を捨てきれなかった臆病な人間なのです。

The dark side clouds everything. Impossible to see the future is.
暗黒面というのは、全てを覆い尽くし、真実から遠ざけます。思い込みを捨て、自然の摂理に従えば、物体が高いところから低いところに落ちるように将来を見通すことができます。これが科学的なモノの見方が言霊の様なものだと言った理由です。今で言うと情報リテラシーと言うべき能力もこれに該当します。

『正義は論議の種になる。力は非常にはっきりしていて、論議無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、それは正しくなく、正しいのは自分だ と言ったからである。このようにして人は、正しいものを強くできなかったので、強いものを正しいとしたのである。』(『パンセ』パスカル

<仮説と検証>

  今回は仮説と検証について説明します。家に帰ると愛猫のミーちゃん(仮名)がゴロニャンと迎えてくれます。『よしよし、私の事を好きで待ち遠しかったんだね』と言って溺愛したりします。そこへ家内『ただ、餌をねだってるだけじゃない?』等と言われたら、ちょっとムカっとしますよね?ここで反論すると言い争いになります。言い争いになれば、声の大きい方が勝ちます。という事は、私には勝ち目がありません。ここで科学者の端くれとしては黙っているしか方法が無いのですが、ここで終えてしまうとブログが続きませんので、敢えて真実を見極めないと命に関わる状況など決着を付けざるを得ない場合、科学者はどう対応するか?という方向で話を進めたいと思います。科学者らしく事実に語らせようという訳です。

 

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    先ずミーちゃんがゴロニャンするのは何故なのか?というのが、この場合のクエスチョンです。科学者はここでリサーチクエスチョンという仮説を立てて検証するという、少しまどろっこしい方法を取ります。私の仮説は『私の事が好きでゴロニャンする』、家内の仮説が『餌をねだっているのでゴロニャンする』です。ここでいきなりどっちが正しいか?なんてミーちゃんに聞くわけにはいきません。仮説を一つずつ検証していきます。私の仮説を検証したい場合は、『私の事が好きでゴロニャンする場合』と『誰でも好き(私でなくてよい)でゴロニャンする場合』を実験的に作ってやり、両方の場合で何回かずつ試行して、その結果、つまりミーちゃんがゴロニャンする回数を比較する事になります。そして、両方に差が無ければ『私でなくてもゴロニャンする』、私の時にゴロニャンする事が多ければ、『私の事が好きでゴロニャンする』という仮説がデータによって支持されたことになり、めでたしめでたしとなる訳です。同様に家内の仮説も検証したい場合は、それ相応の条件を作って同じように比較する事になります。

    この様にして、一歩一歩現実世界で起こる事象に規則を見いだしてきたのが科学です。この作業を検証と言います。正確を期すために付け加えておきますと、結果によっては、私の仮説も家内の仮説も両方とも支持されることもあり、私が好きでゴロニャンし、かつ餌が欲しくてもゴロニャンすることもあるという結果になることもあります。


    さて、ここまでの仮説と検証の話でしたら、他にも誰か書いている人がいると思います。ここでもっと科学の本質的な部分に踏み込んで行きましょう。冒頭に戻ってみましょう。猫のミーちゃん(仮)は、私が家に帰ると、ゴロニャンをしましたよね?これは現実に起こった事実です。そこから私と家内は別々の仮説を思い浮かべました。ここで<はじめに言葉ありき>で説明したことを思い出してください。ここでも、“仮説を思いついた私”というフィルターが、“現実”と“抽象化された世界”の間に“在る”のが分かって頂けたでしょうか。現実に起こった事実はひとつですが、そこから思い付く仮説はその人の立場や経験に寄って異なります。そして、それが正しいかどうかは検証されるまでは分からないということです。ですから、科学者であろうとすると、自分の仮説を主張もできず、かと言って相手の仮説が正しいとも言えず、反論せずに黙っているしかできなかったのです。科学者にできるのは、と言うか興味のあるのは、どの仮説が正しいのかを検証する事です。

『しかし、かれは知らないくせに何か知っていると思っているのに対して、私のほうは、実際、知らないとおりそのままに、知っていると思ってもいないからです』(『ソクラテスの弁明』三嶋輝夫、田中亨英、講談社学術文庫

『本当に理性的な人間は絶対に自分が正しいなどとはめったに思うことはない。理性的な人間になろうと思ったら自分の思想に対しても常に疑いを持っていなくてはならない。』(バートランドラッセル)
『私は自分が間抜けだと思うくらいに賢い』(リチャード・P・ファインマン

『無知を恐れてはいけない。偽りの知識を恐れよ。』(ブレーズ・パスカル

<要素還元主義と科学の限界を自覚する>

  前回、我々は物事を論理の世界で考える際には、言葉を使って、つまり抽象化して世界を見ているというお話をしました。今回は、この抽象化の過程が科学の世界でどの様に使われているかをもう少し丁寧に見ていきたいと思います。
    
    実際にある薬を例にして説明します。イレッサとタルセバというある特定のタイプの肺がんに使われる抗がん剤があります。二つの抗がん剤ががん細胞を攻撃する仕組みは同じです。専門的に言うと、共にがん細胞中のEGF受容体という標的分子に作用して、その働きを止め、がん細胞の増殖を止める薬剤です。それぞれの添付文書によると、二つは共に粉末でイレッサは白色の粉末、タルセバは白色から微黄色の粉末と記載されています。分子構造も似ていますが、全く同一ではなく、それ故に増殖抑制効果、体内の分布、代謝速度、など若干の差がある事が予想されます。

    さて目の前にこの二つの抗がん剤があります。見ただけではただの白っぽい粉です。但し、服用すると癌に効くらしい。そうすると人間は比べたくなりますよね?どちらが良く効くか?専門的に言うと、それらの効果を比べるでしょう。普通、抗がん剤の効果を比べるには、無増悪生存期間(PFS)や全生存期間(OS)という尺度を使います。効果を測るモノサシの役割をするものだと思ってください。PFSやOSはそれぞれ、患者さんの病態が進行せずに停止している期間だったり、(病態の進行も合わせて)どれだけの期間生存しているか、といったモノサシです。モノサシは他にもあります。レスポンスレイト(RR)と言って、投与した患者さんのうち、何人の患者さんに効果がみられたか?も比較のモノサシにもなったりします。そういったモノサシを目的に応じて選んで、比較しているのです。

    薬には、効果以外にも副作用があり、イレッサもタルセバも、EGF受容体が多く発現している皮膚や腸内の上皮に作用して、皮膚炎や下痢といった副作用が高頻度で起こる事が知られています。それらの副作用を比較したい場合には、皮膚炎や下痢の発現頻度、即ち、皮膚炎は□%、下痢は▲%という発現頻度を比較するのが理に適ったやり方でしょう。状況によっては、皮膚炎や下痢だけでなく、副作用全体を引っくるめて、重篤な副作用を予め定義して比較する事もあります。
    
    さて、ここで科学で行なっていることを改めて確認したいと思います。現実世界では、白っぽい粉末の薬があり、ある種の肺がんの人が飲むと、効果があり、癌が縮小したり、また別のある人が飲むと副作用が出るわけです。人間はどちらが効くか知りたい、または安全か知りたいから、効果とか副作用を測るために目的に応じたモノサシを用意して数値化する訳です。これは抽象的な世界での作業です。もう一つ強調しておきたいのは、比較は同じモノサシでしかできないという事です。効果と副作用は同じモノサシで比べられないし、副作用同士でも皮膚炎と下痢を同じモノサシでは比べられません。どうしても比べたいなら、効果としてどれだけ生き延びたか?と、副作用としてどれだけ死亡してしまうか、という命を基準にすれば同じモノサシの上で比較ができます。これが、先述の全生存期間に相当します。

    ここで見てきた様にある要素を定義し、その中で論理的に考察するのが論理学や科学の特徴です。これは要素還元主義と言われ、しばしば全体を見る事がができないと批判の対象となることがあります。そういった欠陥や次回以降で説明する因果関係が見れない等の欠陥がありますが、それを自覚する事により、効果的なデータの使い方、意味のあるデータの読み方を行い、本質に近づき、世の中を住みやすいように変えていっているのが科学とも言えるでしょう。

 

『太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、黄色い点を太陽に変えられる絵描きもいる。』パブロ・ピカソ

 

 

<はじめに言葉ありき>

今回と次回で、抽象化と要素還元主義について説明したいと思います。
    
    我々は考える際、普通、言葉を使います。ここでは、その言葉の産まれる瞬間に注意を向けてみましょう。実感して貰う為に、お気に入りの写真か何かを用意してください。もし面倒であれば、下に張り付けた写真を使っても構いません。まずは写真を見て、感じるままに色々な言葉が浮かぶ様を観察してください。感じ方は人によって様々だと思いますが、色々な言葉が浮かんで来たのではないでしょうか。『きれいな景色』、『行ってみたい』、『以前訪れたことがある』、『自分ならもっとこういう風に写真を撮る』、『山に行って澄んだ空気に触れたい』、『青いきれいな海』、『涼しそう』、『木がいっぱい』、『空の青と木々の緑が気持ちよさそう』、『昔、誰某と旅行して楽しかったなあ』といった数々の言葉や、窓や人の数を表す数字、山の高さや水平線迄の距離かもしれません。

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    ここで止まって考えていただきたいのは、多くの場合、人は現実の世界を言葉に写し取り、抽象の世界で思考しているという事です。即ち、言葉に置き換えることにより抽象化して、物事を考えているということです。

    更にもう一歩踏み込んでみましょう。現実を言葉に置き換える過程で“自我というフィルター”が入っているのを分かっていただけるでしょうか。写真を見て『行ってみたい』、『美しい』と感じたのはあなた自身ですし、『海』や『山』、或いはその中にある数を数えたり、距離を測ったり、色等、言葉に移し替える対象を選んだのもあなた自身であり、同じ写真でも感じ方は人によって違うと言うことです。美しさを感じて思わず『わーッ』という言葉を発したり、分析的に数を数えようとしたのもあなた自身です。そして、それは個人の感じ方やその時に必要とする情報によって違うと言うことです。現実には実物がありますが、そこから対象を選び意味を汲み取ったのは、他でもないあなた自身なのです。

    『ありのままに観る』という言葉を聞いたことがあるかもしれません。または『色即是空、空即是色』という言葉。あなたのフィルターを取り払って、この世界を観たらどう見えるでしょうか。一方、あなたのフィルターを通して見た世界はどうでしょうか。あなたのフィルターは鍛えようによって素晴らしい世界を捉え続けるかもしれません。それはあなたのセンスであり、才能であり、感動することによって鍛えられます。
『自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人はとても少ない』アインシュタイン  
http://iyashitour.com/meigen/greatman/einstein 

『なぜデカルトは虹を研究したと思う?虹を美しいと思ったからだよ。』ファインマンさん最後の授業より

この一連のブログが終わる頃迄には、これらの言葉の意図することが実感を持つようにお伝えできれば幸いです。

<科学の目的>

   科学とは現実世界の本質や世の中の因果関係を知ることです。ある意味、仏教で追求している因果関係にも通じるものがあるのですが、それはひとまず置いておき、科学の本質をもう少し正確に表現すれば、現実世界を体系付け、普遍的な法則を見つける、同時にその法則の成り立つ範囲を明確にする作業と言えると思います。即ち、ある一定の条件の下で、どこでも成り立つ規則を検証していくことです。物体が落下する際の運動方程式然り、ボイル・シャルルの法則然り、発売されている薬が風邪に効果があるかどうかも、その効果が検証されて(風邪にこの薬は効果がありますという規則が公に認められて)初めて発売が認可されます。物体の落下もボイル・シャルルの法則も、薬が効くことも、ある条件の下で何度も再現されるので、世の中で信用されて利用されているのです。突き詰めて言えば、ある条件の下で規則に『再現性』が認められることが重要で、まさにそのことが科学が利用される力の源です。

 

   さて、この再現性はどの様に確かめられるでしょうか?それを順を追って見ていくのが本ブログの目的です。それには、現実世界をモデル化し、仮説を立てて検証していくというステップをとる必要があります。そのプロセスを説明していきます。説明する過程で、自分という存在、つまり自我が具体的に何をやっているかが理解できれば、自ずと科学の限界や欠点等が分かり、どういう使い方が有効かが理解して頂けると思うからです。

 

“The Lady Tasting Tea; how statistics revolutionized science in the twentieth century”という本の一節に”Good scientists would be able to construct experiments that produced new knowledge. Lesser scientists would often engage in “experimentation” that accumulated much data but was unless for increasing knowledge.という一文があります。このGood Scientistsが、どのように世の中を観て新しい知識を獲得していく様を体験していくことになると思います。

 

   私は、科学で検証された規則は現実に力を持つ言霊の様なものだと思っています。つまり、その条件下では、自然とその規則通りになる可能性が非常に高い、つまり検証された規則は“現実に力を持つ”と言うことです。例を挙げると『ボールを離すと落ちますよ』、『この風邪薬は(効果が検証されているので)効きますよ』ということは現実に起こるので、ある意味言霊だと思っている、ということです。

<はじめに>

   このブログでは、科学的な考え方、科学的な物事の見方についてお話をしていきたいと思います。と申しますのは、周りを見ますと世間のごく一部の日本人を除いて、その様な物事の見方のできる人が年々少なくなっているように感じられるからです。逆に、米国をはじめとする欧米ではその様な見方をできる人が増えてきていると思います。現実に、欧米では統計を駆使して仮説や検証を自在に使い分けたり、ひいてはビッグデータやリアルワールドデータを現実に役立つように有効に活用したり、弱いAIと強いAIの違いとか、知識と知性について論じたり、そういった事が盛んになってきたのはこの見方ができている証拠ですし、逆に日本国内では一部でそういった動きについて行っている人も居るものの、テレビのコメンテーター、映画や小説、国会の答弁、そして会社に入ってくる新入社員を見ると、大勢としては全く逆の方向に進んで行ってしまっているように感じられます。

 

   当然世の中には、その様な見方ができなくたって生きていける、自分の人生には関係無いという人もいると思います。それは事実だし、実はそういう見方をしない方が楽で楽しくやっていけると考える人もいると思いますし、ある意味事実だと思います。一方で、科学的な物事の見方を知りたい人、科学の力の源、あるいは科学の限界が何処から来るのかを知りたい人、または世の中の出来事を違う視点で見てみたい人も少なからずいると思います。このブログでは主に後者の人達に向けて、科学的な考え方とは何か?科学的な物事の見方とはどういうものか?について書いていきたいと思います。

 

   皆さんは、科学者とか、科学に携わっていると聞くとどんなことを想像されるでしょうか?漠然と、頭が良いとか、色んな事を知っているとか、頭の痛くなりそうな数式を沢山知っているとか、話が論理的とか、そんなイメージでしょうか?それらのイメージは一面正しいですが、それらは科学をする上で役に立ったり、科学に携わった結果であって、科学者になった原因ではないと考えます。むしろ科学の本質は心の中にあり、今挙げたイメージの真逆にあると思います。その心の在り方は、世の中や物事、現象に対するモノの見方に関係してきます。プラトンの著作やアリストテレスは論理と心の部分を分けて論じており、論理よりも上位に心の在り方とかそういった形而上的なものを置いています。その様な事柄も踏まえてこのブログを読んでくださると、このブログで言う『科学者は物事をどういう風に眺めているのか』についての理解も速まるかもしれません。